オタクについて、肯定的に語る人々も否定的に語る人々も、オタクという言葉が八十年代に登場したあたりから話が始まる。しかし、ここで忘れてはならないのはオタクという言葉ができる以前から、オタクと現在呼ばれている人々がいたということである。
最近はオタクについても、ナショナリズム的な発言をする人々がいる。日本のアニメを礼賛するオタクもナショナリズム的な感じが見受けられる。こういう人々は外国のまじめなオタク研究も、日本特殊論として排斥する傾向がある。
しかし、日本社会に対する批判すべてを日本特殊論で片づけてしまえば、それは批判に耳をかさないということであり、これはある種の鎖国論に至るものである。もう少し真摯に耳を傾けた方がいい。
オタク以前のオタクを考えてみた場合、オタクに対する批判や、日本社会批判は既に内在していたことがよくわかる。紅屋妙人は外国の否定的な見解は、この当時のオタクの自己規定からでている者があるように思える。
オタクという言葉ができる以前から、オタク的な行動をする人々はいた。最初は「宇宙戦艦ヤマト」のファンがそうだったかもしれない。しかし、このファン層には現在オタクといわれるような二次元の世界に入れ込む人々だけでなく、戦艦が宇宙をいくというSFロマンにあこがれたファン層もいた。スタートレックにあこがれる欧米人は多いが、彼らはオタクとは呼ばれていない。70年代のヤマトブームはSFとオタクの混在といえよう。
次にきっかけとなったのが、ガンダムであった。ガンダムは1979年に放映されたが、人気は出なかった。ヤマトは当時既に何度も映画化されていた。SFが好きな人々からは、ガンダムは、またロボットを登場させたということで退行だと考えられていた。唐沢俊一氏もそういう立場を今でも取っている。
しかし、ガンダムを支えたのは、最初はSFからは遠いところにいた少女マンガファンだった。ガンダムの最初のころの山場であるガルマの死にインスパイアされ、シャアとガルマの同性愛的な物語を派生させていった。今の腐女子の先駆けである。
次にガンダムに引かれたのは、ガルマの死でシャアがいったん舞台か退いた後に主役となったのが、セイラという少女だった。ガンダムファンの青少年はこのセイラに夢中になったのである。
それ以前にもアニメのヒロインの少女は数多くいた。アルプスの少女ハイジもそうだった。ドラえもんの静もいた。宇宙戦艦ヤマトの森雪もいた。
しかし、いずれも明るく健康的で、大人になればいいお母さんになるというタイプばかりであった。
セイラはそうではなかった。ブラザーコンプレックスであり、時にサディスティックですらあった。当時、ふつうの生身の少女に恋することのできない青少年がこのセイラに夢中になり、「悩ましのアルテイシア」というヌード画像まで作り上げた。そして、ファンの中にはこれでオナニーまでしたものもいた。(映画『めぐりあい宇宙』でのセイラの入浴シーンでオナニーした猛者もいると聞く。)
こういうアニメの中の少女に青少年が恋するという現象が80年代初頭に出現したのである。今でいうオタクの登場であり、萌えの登場だった。しかし、オタクということばがなかったとき、こういう青少年、もしくは、ガルマに恋する女子を指す言葉はなく、あるいは「ビョーキ」とよばれたり、自分でもそういったりしていた。
こういうファン層が後にオタクと呼ばれるようになっていく。セイラにあこがれた紅屋 妙人もその一人である。紅屋 妙人も80年代は「ビョーキ」と自称していた。しかし、最近はオタクと呼ばれている。やっていることは以前と全く同じである。対象はセイラだけでなく、最近のアニメヒロインまで拡大している。セイラの正統後継者としては、マクロスのシェリルか、ライドバックの尾形琳かというところである。
しかし、日本の論者もしっかりと認識しておかなければならないのは、オタクという言葉ができる遙か以前、外国も日本の知識人も現象を認識するはるか以前から、後にオタクと呼ばれる人々が自分たちを「ビョーキ」というネガティブな言葉で表現していたということである。これは宮崎勤事件のはるか以前のでき事であった。特段の事件が生ずる前にすでにオタクとしての行動をとる人々が自らを病気であると定義していたということが重要である。
ビョーキと自らを呼んだわけではないが、宮崎駿も同じような発言をしている。彼は学生のころ、『白蛇伝』をみて、そのヒロインに恋い焦がれたが、そういう自分を恥じている。
オタクたちが欧米化された日本異質論者であった訳ではない。
「病気」ではなく「ビョーキ」といっていたところが重要である。「ビョーキ」であれば、日本の保守層がしたいような犯罪者予備軍としてのオタクということになる。「ビョーキ」としたのは、世間からすると病気だろうけれども、自分たちは病気ではないという反抗的な自己アイロニーがある。
ではなぜ、世間は病気とみると考えたのか。アニメのヒロインに恋することがビョーキであり、生身の人間に恋するのがフツウである、というのはどこに原因があるのだろうか。ヨーロッパでは変わった恋というのはそれほど不思議なものではなく、文学作品も多い。人ならざるものに恋する物語としては、ゲーテにも、ホフマンにも名作がある。映画でも、オタク第一世代のバイブルになっているブレードランナーなどがそうである。しかし、欧米ではこういう取りつかれたような主人公をビョーキとは言わない。ブレードランナーのレプリカントの不思議な美貌をアニメで表現しているのが、『まほろまてぃっく』の『まほろ』さんだろうし、最近であれば『初音ミク』だろうか。
日本で、オタクな人々が、当初自分たちをビョーキと称していたのは異質なものを徹底的に排除しようとする日本社会の特質にあったのは事実であり、この世代の人たちが、ビョーキではなく、後にオタクという言葉を使うようになり、オタクに対するネガティブなイメージの発端となっている。宮崎勤事件のときに、特撮オタクであった彼を病的な犯罪者としてオタクにしたのは、マスコミの論調もさることながら、自分たちの定義にぴったりとはまるような事件に遭遇したオタク第一世代であった。
しかし、日本のみならず、世界にこれだけオタク的な人々がいる中で、これをビョーキとだけ称していても、物事の解決にはならない。政党の凌辱ゲーム規制論者は、大多数のオタクを政府公認の国立オタク博物館に囲い込み、凌辱ゲームやロリコンゲームを楽しむオタクを再びビョーキにしたいのかもしれない。しかし、この現象の発生当初から、オタクとビョーキは一心同体のものであり、これを分割することなどできない。政府に囲い込まれたオタク文化はサブカルチャーとしての魅力を失い、枯れたつまらない芸能に堕するであろう。最近の宮崎アニメがつまらないのもオタクを軽蔑する彼の姿勢に問題があると考えられる。『ルパン三世』のクラリスにオタク第一世代が清純なエロスを感じたようなものはもはやない。クラリスのようなエロスがあるのは現代であるとすれば、『ライドバック』の尾形琳であろう。
異質なものを排斥する日本で生まれたオタクたちは自虐的に自らを『ビョーキ』と賞した。しかし、ここでゆがんでいるのはオタクなのだろうか、日本社会なのだろうか。
紅屋妙人はゆがんでいるのは日本社会だといいたい。このゆがみが日本にSM文学を作り出した土壌ともなっている。
紅屋妙人もこの伝統の流れの中でSM小説を書いて、『でじたる書房』で発表しております。
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