ビョーキではなくオタク
しかし、オタクとはなんなのだろうか。ビョーキから始まったものであるにしても、現在のオタクをビョーキとは呼べない。思うにビョーキと読んでいたときのオタクは孤立した存在出会った。これに対してオタクはお互いに連絡を取ろうとしたとい大きな差がある。
では、現在使われている用語としてのオタクとは何なのだろうか。
以下においてまずオタクの定義について論じたい。具体的にはその淵源をたどり、その使用方法を説明したい。
しかし、人はいかにしてオタクとなるのか。欧米の様々な研究はその理由を日本社会の独自性に求める。バラールのオタクジャポニカも社会構造、家庭と学校がこの中で重要な要素として論じられる。
しかし、オタクは日本でのみ見られる現象ではない。オタクはヨーロッパにも存在する。しかし、ヨーロッパの議論はベネックスのドキュメントに基づくものであるであり、その大本はバラールのオタクジャポニカにある。
単純化されたオタクの概念が指す人は、独自の、いやゆがんだメディアとのつき合い方に特徴づけられる人である。メディアへのゆがんだ依存が否定的な意味を引き起こす。
オタクがこの特殊なメディアを生活の中心にする時、これは二番目の否定的な意味を巻き起こす。オタクはこれにより、ヴァーチャルな世界や人物に現実以上に注目するということになるからである。
保守的な人々はメディアの向こうにリアルな世界があることを当然のこととしている。だから、アイドルの映画をみれば、次に現物のアイドルと会いたいという話になっていく。アイドルとあえなければ、にたような雰囲気の女性と恋をし、家庭を築くのが保守的な人々が許せる下限なのだろう。
しかし、オタクはこの実物の世界には行かない。アイドルオタクはアイドルをヴァーチャルな世界で愛でるが、リアルなアイドルには関心がない。まして、アイドルのような彼女を持とうとすることもない。ヴァーチャルな世界が実在する世界と同価値というのもオタクの一つの特徴である。
オタクという日本語は本来家を意味し、非常に形式的な呼びかけに用いられている。こういう呼び掛けは、平井一正の『ウルフガイ』シリーズでも使われていた。一説によると、慶応の付属高校のSF愛好家が使っていたともいわれている。
オタクは、あまり親しくなりたくない人とコミュニケーションするときの呼び掛けの言葉として用いられる。オタクは、日本では対象となっている人と距離を取りたいときに使われる言葉である。オタクという概念は独自の立場を明確にしたい時に適している。これにより他人と距離を置くことができる。しかし、これはオタクという言葉である人が排除されたり、軽蔑されたりということを意味するものではない。オタクは反対に生存の場所が指定されている。これらは確かに社会の周縁ではあるが、弱い紐帯で結びつけられた部分である。
筆者が知る限り、オタクという言葉を使い始めたのは、八十年代初頭の雑誌『OUT』であった。アニメファンの集会などで、他人に『オタク』といって話しかけて、自分のコレクションを自慢する連中という意味で使われていた。ニュアンスとしては、ビョーキと称して、自分のカラの中に閉じこもる普通のオタクに対して、割とずうずうしい存在として扱われていた。
八十年代初頭のオタクはアニメのヒロイン、たとえばガンダムのセイラに恋する自分などというものが他人に理解されることはないということを前提に自分の世界に逃避していた。こういうオタクに対して、自分はセイラのセルがや、自分が描いたヌードをもっちていると自慢して語る人たちが、オタクと呼ばれていた。ビョーキである自分を積極的に語る人たちが登場したのである。中森昭夫がオタクを語る以前に雑誌の『アウト』にオタクは登場していた。現在に至るオタクの語源はここにあるものと筆者は考えている。
これまで論じてきたところでは、オタクという言葉に否定的な意味はないが、日本社会においては、社会の周辺部分に位置づけられるということは、該当者にとっては微妙なことになる。グループの紐帯から排除されるということは自己の喪失に等しいことであるからである。このことは日本文化の三つの基本と結びついている。集団主義、ヒエラルヒー、形式主義である。これらの三つの要素が明らかにする事実は、日本はヒエラルヒー化された社会構造を基礎とし、調和と安定を形式的に志向する文化の国であるということである。
伝統的な日本で、個人が子供のころから直面する問題は、具体的に規定され、認められた場に参加しなければならないということである。この場がないと存在の意味が失われる。どのような社会グループにも属さないということは、全く受け入れがたい状況となる。日本ではあるグループに属することで必要な安全が提供されるからである。集団主義、ヒエラルヒー、形式主義という価値は、日本では、学校、職業、家庭で維持されている。これらの分野以外ではこれらの価値は限定的である。若い世代は伝統的価値と現代的価値の狭間にある。新しい価値は、西欧の価値が日本文化に流入する事で登場したものである。
オタクはポスト工業化社会の産物である。その情熱の対象が生活の中心にある。ここで問題になっている対象はポップカルチャーから発生しているものである。アニメ、マンガ、アイドル、テレビゲーム、プラモデル、軍事、技術一般、それにコンピューターである。だが、水槽、サッカー、健康オタクも論じられている。オタクは特定の分野とは関係がない。むしろ対象との関係である。
オタクが指す人は、その生活をバーチャルな空間に移し、または、ヴァーチャルな場の特殊な内容を生活の中心にしている人である。この例としては、メディアの人物でもあるし、人形やサッカーでもいい。この限りにおいて、オタクはコンピューターへの情熱とだけ限定されることはない。オタクはパソコンの前異に座り、マンガ、アニメ、フィギュアを集める。しかし、外界との関係に注意しない。外界を無視するというところに、ファンとの違いがある。ファンがオタクの原型であるが、オタクをファンの同義語として使うのは正しくない。従来の西欧におけるファンは情熱は有しているが、その情熱により、社会的な領域に背を向けるということはない。
社会的な領域に背を向けるのが日本のオタクの特色である。しかし、これも一時的もので、北京オリンピックの際のチベット弾圧に反対するオタクたちや、『オタク』を最初に持ち上げた政治家である麻生太郎に対する初期の熱狂を考えると、オタクが社会に背を向けるというのは、八十年代、九十年代の特色であると考えられる。これは歴史的な経緯で説明できることである。宮崎駿などが社会に背を向ける作品を作り出すが、これは、彼が、戦後の労働運動の挫折の体験である東宝争議で仕事をなくした人であるということがある。押井守は高校時代からの学生運動家で挫折の経験がある。ガンダムの作家である安彦義和も学生運動からドロップアウトした人である。
オタクの第一世代は、七十年代の学生運動が終息した時代に学生生活を過ごし、学生運動で挫折した人々の作品を愛好した。したがって、初期の社会に背を向けたというイメージがここで定着した。
しかし、オタクであることをやめた第一世代を別にして、いまだにオタクを続けている人は社会に背を向けている人々ではない。社会とかかわりをもち、それなりの収入を得て、「オトナ買い」と称して、オタク向けの商品を大量に購入するようになっている。
欧米では、オタクの特徴は社会に背を向けた存在としているが、それは少なくとも、現代のオタクには当てはまらず、歴史的な一時期の現象として説明できると考えられる。そうなると、オタクの特徴というのは、歪んだメディアの消費ということにある。リアルな世界よりも、メディアの世界を重視する消費性向がオタクと考えれば、現在の日本の様々な状況が説明できると紅屋妙人は考える。
日本の場合このリアルというのが、まず自分が所属する集団ということになる。個人のありようということではない。恋愛ですら集団が前提になる。
紅屋妙人は社内恋愛ということばを聞くと気味が悪い。家庭の中にまで集団を持ち込むというのがまず信じられない。相手が上司の娘とかになると、一体どんな個人生活が成り立つのか想像できない。
しかし、これが日本のリアルである。こういうものに背を向けたとき、ガンダムのセイラ、ライドバックの尾形琳、屍姫のマキナ、エヴァのレイの美しさが輝いて見えるのである。
紅屋妙人はこういう美を表現したいと思い、『でじたる書房』で小説を発表しております。
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